作家・岸田奈美さんのnote「「死ね」と言ったあなたへ」を読んですごく考えさせられた。
「虐待の連鎖」ということばがあるけれど、虐待する人は、実は虐待の被害者でもあったりする。私たちはなんでもそうだけれど、経験したことしか知らないし、できない。だから、連鎖してしまう。今回「死ね」と書き込んだ人もそう。
「死ね」と発せられた言葉の裏側にある、重い真実を私は想像できただろうか。
目に見えるもの、耳で聞こえるものだけを真実としてどうしても考えてしまう。その裏側にあるさまざまな事柄を想像することは容易ではない。 だって、見えないし、想像するにはあまりにも情報が少なすぎる。
もし、自分のSNSに「死ね」など書き込まれたら、その言葉の裏側を想像する余裕があるだろうか。自分の気持ちが一杯いっぱいの時だったら、気持ちの上に重しとなってズシリと居座って、立ち上がれないかもしれない。
小説やドラマなどでは必ず伏線が貼られているから、想像することは容易いけれど、匿名がまかり通るSNSでは、伏線なんて当然皆無。どこに住んでいるかも、男か女かもわからない。当然その人の人生なんてわかりっこない。
けれど、「死ね」って言葉は、どんなに仲が良い人にでもそうそう言える言葉ではない。それだけの重い言葉を発するってことは、相当、勇気がいたはず。
この言葉を書き込んだ人の事情がある程度わかったからこそ、この言葉の裏側にまで想いを寄せることができるけれど、何もわからなければ、とてもじゃないけれど無理だ。
意識的か無意識かは別として、人間の行動には何かしら意味がある。その意味を常に考え、想像できる人でいたいと願うけれど、そのためにはどうしたらいいのだろう。
発せられた言葉の裏側にまでも心を砕くことのできる人・・・。
道のりは遠いけれど、いつかはそんな人でありたいと願う・・・。
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